日本版都市国家「越中都ーあい都ー」の実現を提案するホームページです。
<注意>このホームページは、あくまでプライベートサイトであり、いかなる団体・企業とも関係がございません。
当サイトで使用した画像及びデータの無断転載は禁止いたします。このサイトの主宰は、炭谷壮一(映像作家/街ニスト)です。

 現在、富山県は『地域間競争・県間競争・都市間競争』とも言われる各種の競争にさらされている。

 そして、いま金沢市・新潟市は民間主導の都市開発が活発化しつつある。
 新潟市では、県・市・財界が中心となり「田園型政令都市」構想と称した13市町村による合併で、人口82万都市を実現、2007年4月1日に日本海側初の政令指定都市を誕生させた。新潟では、次のターゲットとして「新潟州実現」を目指している。
 一方、金沢市では北陸新幹線開業による全国的な知名度アップで、北陸の中心都市というイメージが定着しつつある。「金沢市が、北陸の中心都市なのは歴然だ」として、金沢市を北陸州都にという声も多い。
 この他の隣県でも積極的な取り組みが増えてきた。長野市では、冬季オリンピックによる都市基盤整備が進み、新たに首都圏化を目指している。岐阜県は、新首都誘致の構想で、一気に日本の中枢になる事を目指すという積極的な施策もある。


 <富山県は、人口デフレスパイラル状態>

 それに対して富山県は、経済力の低下や若者を中心とした急激な人口の流出による過疎化・高齢化が進み、北陸・北信越の中でも完全に埋没している。富山県に残された時間は、余りにも少ないと言えるだろう。
 富山県を牽引してきた富山市や高岡市は、戦後の人口増加が思うほど進まず、大都市圏から大きく水を開けられ、隣県都市との競争でも苦戦を強いられてきた(下記グラフ参照)。特に高岡市は、戦後から現在の人口増加が、わずか3万人ほどで、かつて北陸第3位(新潟県を含めて)の都市が、今では富山市・福井市・長岡市・上越市に抜かれ、第7位まで後退し、衰退にも歯止めが掛からない状況だ。更に近年では、富山市も人口減少都市の仲間入りを果たしてしまった。富山県にとっては、先行きが大変不安な情勢である。人口の減少は、更なる人口減少を招く事態となっているのだ。
 そういった中、富山県は重大な危機感を持ち、今までにない思い切った戦略と、積極的な行動が求められている。その打開策のひとつとして、「政令指定都市(政令市)の実現」があげられる。政令指定都市になると、行政区が設けられ、都道府県並みの権限と財源を持ち、道路・公園の優先的な建設、廃棄物処理施設高度化の優先的支援、公共交通事業の補助など、多くの優遇処置が受けられる。

<政令指定都市の経済循環化>

 もっと具体的に言えば、政令指定都市に昇格すると、まずは全国展開を計画する多くの「小売企業」が進出してくる。それに伴って「流通企業」が増加。商業基盤が充実すれば、それをサポートする「製造業の支店」や「金融企業」も進出してくる。人口動向が活発化する事で「交通機関」が充実。それに伴って交流人口が増え、「観光・イベント系」も活発化するのだ。そして、経済活動が魅力的になれば「雇用需要」が伸び、外からの「労働層や若者層」の流入も進む事となる。その「労働層や若者層」を、新たなターゲットとした「小売企業」が更に増える。このように経済活動は、「循環化」され都市が発展していく。

 例えば金沢市の場合、富山市より圧倒的に学生が多く、若者のファッショナブル性が高い商業都市として全国的に評価され、多くのブランドブティックが進出した。しかし、それでも金沢市が政令市でない事を理由に、誘致できなかったブランドショップが数多くあるのだ。つまり魅力ある都市であるかどうかの判断基準が、「政令指定都市」だと言えるだろう。

 人口流入でも同様な事が言える。東北の中心都市「仙台市」。1989年に、隣接する泉市・宮城町・秋保町と合併して、人口70万から86万都市となり、面積788平方キロメートルの政令指定都市に昇格した。
 仙台市は合併後の13年間で、人口は15万人も増加して100万人都市を実現させた。これに対して、隣接県の県都である山形市・福島市では、人口を減少させてきたのである。つまり、仙台市の発展は、政令市になった事により、周辺都市の『人・物・金』を吸収して実現したのである。
 これと同じ状況が、今後は北陸でも想定される。政令市の新潟市や州都を目指す金沢市が、北陸の中心都市になれば、富山県は人口減少に拍車が掛かるだろう。既に、2005年度の国政調査では、13市町村合併で誕生した新潟市が、5年間で4千人の人口増加を果たしたのに対して、7市町村合併の富山市は現状維持、福岡町と合併した高岡市にいたっては4千人の人口減少と差が広がっている。北陸でも勝ち組・負け組が、鮮明化してきたといえるのだ。富山県の過疎化・衰退化は、待ったなしのところにきている。
 しかし、富山県でも政令市を実現させれば、北信越の中で地理的優位に起ち、仙台市と同じように北陸の中心都市として"勝ち組"になることも夢ではないだろう。


<幻の政令指定都市「日本海市構想」の再現を期待>

 富山県では、戦前から富山市と高岡市を合併して大都市をつくる構想があった。そのきっかけは、高岡商業高校でまとめられた提言だ。また、戦前から戦後にかけては、富山地方鉄道の佐伯氏も、富山県の全県一市街地化・県一都市化の必要性を唱えてゆく。そして、戦中時には、高岡市と新湊町が合併を果たした。富山市と高岡市は隣接する都市圏となったのである。富山市と高岡市は、両手で射水郡を包み込むような形となり、都市形成として、まさしく「富山高岡広域都市圏」が「ひとつの都市」を成していた。だが、戦後の昭和26年1月に
新湊は高岡市から分離独立をしてしまう。

 戦後復興が進むなか、具体的な合併への動きが起こる。それが1950年〜60年代に起こった富山市と高岡市を中心とした大規模市町村合併による大都市実現を目指す構想だ。60年代初頭には、大門町出身で読売新聞の社主でもあった正力松太郎氏が、富山市と高岡市を軸に、70〜80万都市をつくる事を提唱する。正力氏は、1960年元旦に、県内24万世帯へ「百万都市構想」を唱えるチラシを配り、その重要性を訴えた。その当時は、高度成長期を迎え、東京への人口集中化が加速しはじめていた時期だった。このままでは地方が衰退すると考えた正力氏は、地方を牽引するような吸引力のある大都市「百万都市建設」をもっと地方に増やす必要があるとして、富山県での実現を目指す。更に正力氏は、富山県内の全市町村を合併させる「全県一市化構想」も提唱する。これまでの、市町村単位といった狭いエリア内での縄張り争いでは発展ができない。そして、大都市とも対抗できない。もっと全県的での発展を考えるべきだと主張したのだ。
 その後、富山県では当時の吉田実知事のもと、国が進める『新産業都市構想』で、富山高岡地区の指定を目指すことになる。この時、実際に合併機運が高まった。当初の新産業都市構想では、指定の条件に核となる大都市をつくる事が前提条件にあったからだ。そこで富山県では、富山市と高岡市を軸に周辺9市町村での指定を目指した。この9市町村を合併させ都市規模は、人口60万を超える。高岡市側からは「日本海市」という名称も取り沙汰される程、具体的な動きとなった。そして、この新産業都市構想は、参加したいという市町村が増えた事で、
指定範囲がどんどん広がり最終的には23市町村となる。合併すれば人口が、軽く75万人を超え、政令市の要件である人口80万人に迫る規模となった。しかし、合併の機運は縮小する結果となる。その原因は、大同団結合併を目指した富山県と高岡市に対して、県都の富山市が消極的な姿勢を見せたからだ。富山市だけが、単独で呉羽町との合併を進めてしまい、結局はそれぞれ大富山市・大高岡市を目指す事となってしまった。もし新産業都市構想をきっかけに、大同団結による政令指定都市が実現していれば、新産業都市計画や富山県の発展は、もっとダイナミックなものとなっていただろう。
 その後、1990年頃、新湊射水経済懇話会が中心となって、再び富山高岡両市に射水圏を加えた13市町村合併による78万都市「日本海市」構想が打ち出された。この時の考え方も、停滞傾向に入った富山県の活性化と、新潟・金沢両市との都市間競争に打ち勝つことを目的としていたものだった。両都市圏を繋ぐモノレール構想や24時間運用の海上空港建設なども提唱される。だが、この「日本海市構想」も、残念ながら実現までには至らなかった。

 もしあの時に「日本海市」が実現していたならば、ここ30年間で、富山県は今とは違う大きな発展をしていたのは間違いなかっただろう。失われた"時の代償"は、余りにも大きいと言える。

 また、"平成の大合併"に関しても、富山県から示された市町村合併パターン案に、人口70万の政令市を目指した富山高岡広域都市圏合併案は示されなかった。これは大変残念であり、新産業都市構想の失敗を繰り返してしまった。富山県民は、変化を求めない"超保守的"で"超閉鎖的"とも言われているが、もしあの時に、富山県がもっと積極的な施策を打ち出していれば、合併状況は大きく変わっていたはずだ。政令市が実現していれば、戦略的にも魅力的な県になっていたのは間違いない。
 急速的な人口減少と全国的な社会改革が進みだした今こそ、富山県が大きな改革にチャレンジをして、再浮上する最後のチャンスとも言える。勿論、後が無い状況でもあり、他都市の様子を見て判断している余裕はもうない。

<「負け組」からの脱却>

 現在の富山県を見る限り、これまで通りの開発方法では県間競争に生き残っていけないことは明らかだ。都市の「勝ち組」と「負け組」を見分ける目安として、地価の変動があげられる。富山では、バブル崩壊以後、地価の下落は下げ止らない状況が続いてきた。2004年秋の国交省地価調査では、富山県の地価下落率が「全国一」(過去最大マイナス8.5%、13年連続の下落)となった事もある。万博・中部国際空港開港を実現した名古屋をはじめ、いわゆる「勝ち組」と言われる大都市圏を中心に、地価が上昇に転じてるところもある中、「負け組」と言われる地方都市の中でも、富山県が「負け組の代表格」になってしまったのだ。このように富山市や高岡市は、もはや、それぞれ単独に発展させることは難しいと言えるだろう。「負け組」からの脱皮は、思い切った大型合併しかない。富山・高岡両市を中心に大合併することが出来れば、必ず全国の都市間競争・地域間競争の「勝ち組」になれるだろう。ひとりでは勝てなくても、ふたりで力を合わせれば勝てるのだ。このことは、富山県が今後生き残っていく為の手段とも言える。

<北陸のメガシティ「大越中市」(政令指定都市)の実現>

 そこで、富山高岡広域都市圏(富山市・高岡市・射水市)+αでの大合併を実現させたい。
 この富山高岡広域都市圏(旧市町村)の面積は、536平方キロメートル。一見すると、面積が大きすぎるのではないかと思われるだろうが、実は東京23区の面積(620平方キロメートル)よりも狭いのだ。また、新都市圏の東西幅(北陸自動車道の富山流杉PAから高岡北ICを直線で結んだ距離)は約30キロとなるが、これはちょうど「札幌市」(人口187万/面積1,121平方キロメートル)の都市圏幅(道央自動車道の札幌南IC-札幌西手稲IC間)に匹敵する規模となり、都市幅が広すぎるという事ではないだろう。富山高岡広域都市圏に周辺都市を含めて、人口80万を超える都市を形成すれば、政令指定都市を目指せる。実現できれば、日本海側で先行する"政令指定都市「新潟市」"を追撃することが可能となる。
 新しい都市の名称は、非常に重要ではある。想定される名称は、「新富山市」・「越中市」・「日本海市」・「あい市」・「立山市」・「北陸市」・「越の国市」などが考えられる。しかし、新しい都市の名称は、良く言われるような「その地域にゆかりがあったり、歴史的な呼び名」に拘る必要性は本来ないと考える。それは日本の多くの地名が、そもそもその地域とは関係がないところから名づけられたものが多いからだ。その代表的なものが、"東京"であり、このほかにも"高岡・岐阜・札幌"などがある。この構想では、とりあえずわかりやすい名称として、「大越中市<仮称>」 と名づけておく。

 富山高岡広域都市圏は、下記の都市エリア地図を見て頂いてもわかるように、他の政令指定都市と、遜色がない「都市基盤」を持っている。

<文化の違いが、大都市の魅力になる>

 富山市と高岡市は、戦後からの政策で『一都市化』を目指してきた経緯があり、国策の新産業都市やテクノポリス構想の指定を受けてきた。両市の中間エリアには、富山新港・太閤山ニュータウン・県立大学なども整備され、富山高岡広域都市圏としての市街化調整区域も行い、『複眼都市』とも言われている。その富山市と高岡市が合併する事は、不思議なことでは無いはずだ。
 また富山市と高岡市では、文化がかなり違うので、合併は難しいのではという意見もあるが、東京では下町と山の手で文化が大きく異なり、大阪では浪速と河内、福岡でも博多と福岡というように、大都市では文化の違いは付き物と言える。むしろ、いろんな文化を持ってる方が、大都市としての魅力になるとも言えるのだ。問題なのは、『やるか、やらないか』の違いなのである。

 富山県はかつて昭和45年あたりまでは、石川県より人口が多かった。しかし人口は逆転し、その後は石川県と富山県の人口差は開く一方だ。1997年の人口統計では、石川県が人口118万人、富山県は人口112万人と6万人もの差がついてしまった。1990年に出された全国の人口推移予測では、石川県の2000年人口は117万人を想定されていたのだが、3年も残す内に予測人口に達した。そして、石川県の人口増加のほとんどが金沢市周辺である。一方、富山県は予測通り、人口は停滞推移となっているのが現実である。富山県は、この人口停滞傾向に対して、大同団結で打ち破る必要がある。


 大富山市・大高岡市という「2大都市」をまたつくるのではなく、隣県に対抗できる「大同団結都市」をつくる事は、将来の都道府県再編成(道州制)に備える事にも繋がってゆく。

 平成の大合併に際しては、政令指定都市の昇格が緩和された。これは「市町村合併特例法」の期限が切れる2006年3月までに合併し(2005年4月までに合併届出が必要)都道府県か ら「合併重点支援地域」に指定された市町村が対象で、将来の人口増のめどにはかかわりなく、人口70万人以上の都市となれば政令市へ昇格できるものだった。この方針は、静岡市と清水市の合併を想定したものであり、両市の合併後の人口は714,266人、面積が1,373.78km2となっている。
 その後も、2010年までは、人口70万以上の合併で政令市に昇格できる要件緩和が延長されたが、現在は廃止されている。富山県としては、政府に要件緩和を再度求めていかなければならないだろう。

<新幹線時代に「大越中市」(政令指定都市)の実現を>

 2005年、新富山市・新高岡市・射水市が誕生したが、この3市を軸に、再度大同合併を行う事を検討したい。これからの新幹線時代に、大都市「大越中市」を生み出すことで、今まで蔑ろにされていた富山県が、大きく見直される可能性がでてくるのではないだろうか。

 そこで当サイトでは、現時点における合併進行状況を踏まえつつ、政令指定都市を目指した合併パターンを提案してみた。


<政令市の誕生は「富山県庁」も強くする>

 いま、富山県の財政は、大変厳しい状況にある。新たな大きい事業は、富山県としては起こせない。
 しかし、もし政令指定都市「大越中市」が誕生すれば、富山県に頼ることなく、政令市単独でも事業を起こすことが出来るようになる。例えば、富山駅の連続立体高架化事業なども、政令市として整備を進めることが可能となるのだ。
 また、国の直轄事業も増える。国の財政も近年厳しくなり、多くの事業が大都市圏に集中投資される傾向となってきた。空港整備や都市整備が、政令市になれば独占的あるいは優先的に行われるのである。
 さらに、政令指定都市になれば、行政による開発に頼らなくても、民間による投資や開発が各段に上昇する事となる。段違いの都市成長パワーが、政令市にはあるのだ。

 富山県に政令市が誕生すれば、行政が何もしなくても、「勝ってに都市が成長する」事となるだろう。
 例えば、民間企業の地方進出基準が、いまや政令市であるかどうかである。大手百貨店などは、地方都市からの撤退が進む一方で、近年では政令市を中心とした大都市圏への進出が続いている。この他、パルコや東急ハンズといった著名な商業施設なども、地方進出の基準が、政令市以上の大都市圏に限っている状況だ。つまり、富山県に政令市が誕生すれば、富山県が抱える多くの問題が解決できるのである。また、雪深い富山県にとっては、若者手が足りないことで高齢者の雪害への対応ができない状況ともなってきている。過疎の進む富山県に、政令市があれば、若者層を富山県に貼り付けることも可能となる。
 財政難に苦しむ富山県にとっても、更に発展が滞っている富山市や高岡市にとっても、政令市の誕生は起死回生のチャンスとなるだろう。

<参考サイト>

○関西広域機構
○新潟州構想について

○田畑裕明(富山県1区-自民党-代議士-小)
○宮腰光寛(富山県2区-自民党-代議士-小)
○橘慶一郎(富山県3区-自民党-代議士-小)
○野上浩太郎(富山県-自民党-前参議院議員)
○どうこ茂(富山県-自民党-参議院議員)
○岡田直樹(石川県-自民党-参議院議員)
○馳浩(石川県1区-自民党-代議士-比)
 ○馳浩の赤じゅうたん雑記
 ○金沢への3つの主張
○佐々木はじめ(石川県2区-自民党-代議士-小)

又市征治(富山県-社民党-参議院議員)
○柴田巧(富山3区-みんなの党-元候補者)
○近藤和也(石川3区-民主党-前代議士-小)
<参考サイト>

○森雅志(富山市長)のひとりごと
○夏野元志(射水市長)-射水に新しい風
○高橋まさき(高岡市長)オフィシャルサイト
07年4月特集第15号
「越中はひとつ
〜政令市で地域密着行政の実現を〜」
富山県は先進事例に学べ!
<大越中市は「北信越」の中心都市へ>

 大越中市は、北陸の中心都市ではなく、北信越の中心都市を目指したい。
 北陸では経済力が300万人足らずで、一つのエリアとしては小さすぎる。また金沢市がある以上、地理的に大越中市は不利だ。しかし、北信越にエリアを広げて考えると、人口は750万人と倍以上に膨らむ他、地理的に見ても大越中市は北信越の中心的都市に必ずなれる。
 今まで北信越がひとつの経済圏となれなかったのは、北アルプス山脈や親不知という難所があった為だが、高速交通網の整備が進んでいけば、北信越はひとつの経済圏として確立できる。そして、大越中市が北信越の中心都市だとアピールしていく事によって、中央大手企業の北信越統括事務所の誘致を有利に展開することが出来るであろう。また、北信越に本拠地を構える企業も、大越中市に本社を移転する事を検討するようになると考える。

 更に、誘致に取り組みたいのが『中央官庁の出先機関』である。
 現在、国の出先機関は、金沢市・新潟市・長野市とばらばらに配置されている。金沢市には、財務・郵政・農政・労務。新潟市には、建設。長野市には、郵政。富山市には、残念ながら国の出先機関はない。かつて北陸通産局の設置で、富山市と金沢市が熾烈な誘致合戦を繰り広げられた結果、北陸通産局は見送られた経験がある。しかし、大越中市ができれば、北信越の中枢管理都市として、国の官庁出先機関の誘致に期待がもてるようになる。北信越が、交通網の整備などで『ひとつの経済圏』として確立し、企業の北信越事務所誘致が進んでいけば、これを当然の流れとして国の出先機関のエリア分け見直し、大越中市への出先機関集中を図れるのではないだろうか。
 まずは、日本道路公団北陸支社・気象庁の管区気象台・NHKの北信越統括支社など国の外郭関係機関の誘致から取り組む事を考えたい。

<"超保守的な地域(三流都市)からの脱却>

 富山県は、変化を求めない"超保守的な地域"とも言われている。その為、思い切った事や新しい事案に取り組む事が極端に少ない。富山県民は、「そういった事は、富山では無理やちゃ」「富山は、これで十分やちゃ」となってしまう。この"超保守的"で"超閉鎖的"になってしまったことには、それなりの理由がある。本来、富山県人すべてが"超保守的"で"超閉鎖的"という訳ではなかったのである。積極的な考えや行動的な人材も、もちろんいた。かつての富山県人が創った大企業が、多く存在する事からも裏付けられる。問題なのは、そういった先進的・革新的な人材のほとんどが、富山を離れて東京へ流れている事だ。これは、見方を変えれば、富山県内では、先進的・革新的なことが出来ないということから富山を見限ざるを得なかったということなのである。
 一方、富山に残った人達は、先進的・革新的よりは、安定・安心を求めた人達となる。あるいは、先進的・革新的なことをしたいと思っても、家や土地あるいは親(仕来り)を守るために残らざるを得なかった人達が多いともいえる。そういう人達が多いとなれば、自然と富山県が"超保守的な地域"となってしまったのも、不思議ではないであろう。世間体を気にして、人並を求め・変わった(奇抜)事を嫌い・当り障りのない行動を選ぶといった傾向は、勤勉・生真面目の富山県民を現していると言える。叱咤激励や影口はあっても、失敗しても思い切って自由に生きてみなさいという空気が少ないのだ。その結果として、富山には一流とよばれるものが、ほとんど無く(自然を除いて)、一流を目指すという風潮もない。富山は、残念ながら三流県と言わざるを得ないのである。
 戦後、大量生産の高度経済成長時には、超保守的な富山県民気質は有効であった。しかし、これからの経済・産業は、情報・知的生産へと移行しつつある。より柔軟な発想力とスピードある革新的な取り組みが求められているのだが、変化を求めない現状の富山県民気質では対応できないであろう。このことは、少子化と相まって、更に富山県の衰退を加速することとなる。

<”基幹都市”(フラックシップシティ=政令指定都市)づくり>

 今、富山県に求められるべきことは、客観的にみて(全国レベルにたって)、そして長期に渡って”魅力と感じられる基幹都市”(フラックシップシティ=政令指定都市)を生み出せるかどうかに掛かっている。他地域から人を呼び込み、また、富山県人も「富山で新しい事が出来るんだ」と感じられるような"革新的な都市づくり"をしなければならない。その為には、いま富山に残っている県民の「大胆な意識改革」が必要なのである。富山で政令指定都市が出来るかどうかは、これからの富山県が生き残れるかどうかに直結してることを認識して頂きたい。行政戦略をはじめ、あらゆる面で中途半端な取り組みが多い富山県。現在は"三流都市"であることを、きちっと自覚して、いかにそこからの脱却を図るかを、真剣に考える時に来ているのだ。

 現在の政令指定都市は、札幌市・仙台市・新潟市(2007年移行)・さいたま市・千葉市・川崎市・横浜市・相模原市(2011年移行)・静岡市・浜松市(2008年移行)・名古屋市・京都市・大阪市・堺市(2006年移行)・神戸市・岡山市(2009年移行)・広島市・北九州市・福岡市・熊本市(2011年移行)の18都市がある。富山県が、これらの地域に負けないで、政令指定都市を生み出すことができるかどうか、行政の手腕が問われてくるであろう。