日本版都市国家「越中都-あい都-」の実現を提案するホームページです。
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 本当に越中は、ひとつですか?
いま 「越中」 という言葉が見直されているが、それは、何故だろうか?

 越中は、昔から呉羽山を挟んで、呉東・呉西に分けて語られる。この呉東・呉西を挟んで「富山さん」や「高岡さん」とも呼ばれたりもする。同じ県なのに、よそよそしい言い方ではないだろうか。何故こうなったのか?
 その原因を考えると「文化の違い」、いや「文化の壁」というものが感じられるのだ。

 例えば、お祭り。獅子舞では、呉東と呉西で大きく異なる。
 呉東では、2人が入る二人立獅子。呉西では、多くの人が入る百足獅子。全く趣きが違う。ご祝儀などでも、呉東と呉西では大きく異なるのは有名な話。特に、呉西では付け届けに厳しい土地柄とも言われている。

 そういった、呉東と呉西の文化の違いはいっぱいある。しかし、もともとはどうだったんだろうか。

 越中国が誕生したのは、今から遡ること千三百年も昔の話。今の福井県北部から山形県庄内まで及ぶ、広大な「越の国」が3つに分割され、越前国・越中国・越後国が生まれました。そして西暦702年には、今の富山県と同じエリアが「越中国」となった。
 石川県が加賀国と能登国から、福井県が若狭国と越前国からできているの対して、富山県はなんと千三百年もの間、カタチを変えずに続いた越中国だけで出来ている。これは北陸で唯一であり、誇りではないだろうか。

 山と海に囲まれた、とてもコンパクトな越中国。想像だが、誕生の頃はきっと、「越中は、ひとつ。」だったであろうと考える。それが、文化で呉東と呉西に分かれてしまったのは、いつの頃でだろうか。

 いま一般的に言われている文化。そのほとんどが、江戸時代に生まれた民衆文化に影響を受けている。例えば、七夕祭りやひな祭りなどは、もともと宮中のお祭りだったものが、江戸時代に民衆へと広がり、今日まで続いている。戦国時代が終わり、太平の世となると人々の心に余裕が生まれ、それが文化の花を咲かせた。そして、今日へと根付いていく。しかし、民衆文化が大きく育った江戸時代、越中国は2つの行政下に分かれてしまう。
 戦国時代に佐々成政が失脚し、替わって加賀藩が越中国を支配する。そして、江戸時代の1639年に「加賀藩」から「富山藩」が分かれた。以後、明治維新までの260年、越中国は、経済力が違うふたつの藩の影響を受けることとなる。これにより、加賀藩の領地では金沢文化の影響を色濃く受け、富山藩とは大きく異なる文化が、越中国を分けることになった。
 つまり、越中国にとって江戸時代は、とても不幸な時期であったと言えるのだ。それは、千三百年続く越中国の歴史の中で、江戸時代の240年間だけが、国が2分され富山と高岡に文化が分かれてしまうからだ。人々の気持ちにも、無意識に東西に分けるようなDNAを植え付けられた時期だとも言えるだろう。加賀藩の植民地となった事で、富山の存在感は薄れて行く。そして、240年間の影が今も続いている。


 「もしも、佐々成政が、江戸時代も越中国を治めていたならば‥」、どうなっていただろうか。おそらく、越中国の民衆文化は、ひとつとなっていたはずだ。
 越中の中央に位置する小高い呉羽丘陵を境に、「呉東」 と 「呉西」 とも言われる。「山があるから、文化が変わる」 とも言われたりするが、実際には、江戸時代の加賀藩と富山藩の境界線が、民衆文化の分水嶺である。

 明治維新後の廃藩置県を経て、越中国は石川県から分県、行政は一本化された。再び独立した行政エリア「富山県」となった。しかし、そこには先人たちの血がにじむ努力によって勝ち取った、歴史を忘れてはいけない。
 そういった経緯にも関わらず、それから更に140年も経った今でも、富山県内には、文化の違い・心の分水嶺が残っている。

 今日、少子高齢化時代を迎えて、富山県は岐路に立たされている。地方と大都市の格差、道州制、都市間競争と、富山県の将来も不透明だ。しかし、千三百年の歴史がある越中国は、これからも生き残って欲しいと願わくにはいられない。
 その為には、今こそ「心で越中は、ひとつにまとまる」必要があると考える。


<立山連峰を象徴に 〜今こそ『越中はひとつ』へ>

「立山連邦のパノラマ」

 越中の広い範囲で、立山連峰を拝むことが出来る。絶景ポイントもいっぱいだ。どこでも、額縁さえ持って行けば、自然の絵画が楽しめる。そして立山は、私たちが意識しないうちに、生活の一部として、しっかり根付いている。

 越中人にとって、立山はまさに 「心のよりどころ」 だ。 それは越中の人達みんなが、立山の勇姿で 「心と心が繋がっている」 と言えるだろう。まさしく、越中ならではの普遍的な 「自然文化」 が、そこにはある。つまり、越中のアイデンティティは、立山連峰なのである。

 しかし、現代においても、越中はひとつにまとまっていない。特に、富山市と高岡市だ。お互いのことに関しては、どうしても 「よそよそしい表現」 をする。 「見えない線」 を、ついつい引いてしまう。それが現実問題としてある。
 千三百年、単独エリアとして続いた 「越中国」 は、本来なら 「誇れる国」 として、確固たる 「心の一体化」 があるべき姿であろう。なのに現実は、越中国の真ん中で、私たちはいまでも 「心の分水嶺」 を引いている。同じ国なのに、寂しい限りだ。
 そして、少子高齢化・地方と大都市の格差・道州制・都市間競争など、多くの問題を抱えて、越中国の将来には暗雲が漂っている。

 政令指定都市へ昇格した 「新潟市」 や、加賀百万石の 「金沢市」 では、北陸の中心都市を目指して、都市集積を進めている。越中は、この二大都市に挟まれて、完全に埋没した。
 越中はこれから、「どうすればいいのか‥、どう立ち向かうべきなのか‥。」

 そのキーワードは、「越中が、真にひとつとなる」 ことだ。
 越中が真にひとつとなる『シンボル(証)』として、呉東呉西の垣根を越えた『新しい自治体』をつくる。その中心軸となるのが、霊峰立山に代表される「越中の自然文化」ではないかと考える。「こころのよりどころが、文化となる。」
 絵になる風景を題材とした、越中だけの唯一無二な芸術文化や都市ブランドが、花開く土壌は十分にあるだろう。

 「北陸はひとつ」 との声もあるが‥、まずは 「越中はひとつ」 にまとまらなければならない。その実現があってこそ、はじめて都市間競争に立ち向かうことができると考えるのだ。


<夢ある街を目指せ!>

 富山県は、若者の流出や少子化による人口減少に悩んでいる。特に、若い女性の県外流出が深刻だ。何故、そうなってしまうのか?。その根本的な原因には、富山県に魅力を感じられず、将来性を見出せないという問題が横たわっている。富山県で夢を語っても、「富山では無理やちゃ」「そんな夢は東京に行かんとダメやちゃ」となってしまう。あるいは、「あんたいつまでそんなこと言っとるがけ」と否定される。また、富山県の将来像を語っても、「なぁ〜ん、富山はこのままでいいがいちゃ」となる。その風潮が、多くの県民に浸透している。しかも、政財界までもが「富山では無理だ」や「富山だとこの程度が限界」となってしまう。つまり、富山で夢を語る事ができないのが現状だ。当然、夢をみるという事もこの県では冷めている。
 若者が、夢をみたり夢をかなえたりするなら、富山県を出て行くしかないとなる。いくら富山県が住みやすい街だとアピールしても、夢のない街が魅力と感じるだろうか?。この根本的な問題を解決しない限り、富山県は衰退を加速させるだけだろう。


 『夢語れる街へ』『夢みれる街へ』『夢かなう街へ』『夢のある街へ』『夢があれば、街は輝き出す』

 富山県は、今こそ『夢を追いかける』ことに拘る時ではないだろうか。夢がある街なら、若者は出て行かない。夢かなう街なら、人が集まってくる。夢を軽くみてはイケナイのだ。


<富山の『現状と目標を指標化」して、課題に取り組む>

 富山県は、「果たして発展しているのか?」「成長しているのか?」「将来性があるのか?」。これをイメージできている方はどれぐらいいるだろうか?。そして、そのイメージには根拠があるのだろうか?。

 現状を認識する事は、非常に重要である。なぜなら、その認識があれば、将来に向かって「どう取り組めばいいのか」が見えてくるからだ。
 現状を良く理解してないのに、「将来は、こうなるのじゃないか?」「将来は、こうなればいいな」では、富山の将来は無いと言える。

 いかに現状を分析して、将来設定をするのか?。その為には、「指標化」というものを取り入れる必要があると考える。
 そして、この「指標化」に大事なのは、コンサルタント会社に丸投げするのではなく、自治体の職員と県民市民が参加して作成する事を大事になる。事業費としては、リサーチ費やワークショップなどの費用が掛かるが、規模は極めて少なくて済むだろう。

<長期都市計画は、百年構想の積み重ねで>

 都市は1年ではできない。10年20年掛けて、徐々に都市となる。そして、歴史を積み重ねて文化都市となる。京都は、千二百年の歴史がある。東京でも四百年以上の歴史がある。また、歴史遺産都市が多い欧州では、パリで千五百年以上、ロンドンで千九百年以上、ローマに至っては二千七百年以上となる。こういう歴史を積み重ねた都市は、世界から見ても魅力的に映る。これら歴史都市は、いずれも計画的に街が造られてきた。ある時は、碁盤の目のような街を。ある時は、城壁に囲まれた街づくりを。ある時は、港湾や街道を軸とした街づくりを。時の権力者が独創的な街を造った事で、街にアイデンティティーとプライドが生まれている。そこには、百年先、千年先を見据えた街づくりが存在するのだ。天才建築家のアントニ・ガウディが設計したバルセロナの聖教会「サクラダ・ファミリア」は、1882年に建設が始まり、百三十年経った今でも建設が続いている。このような都市への拘りが、魅力ある都市と魅力的な人々を創り出す。
 現代の都市づくりは、長期の都市計画を策定する事はあっても、決して継続的なものはない。富山県では、10年単位の長期計画を定期的に策定しているが、百年後の富山の姿は計画しておらず、具体化や具現化も行われていないのが現状だ。だからこそ、都市計画を百年単位で取組む必要があると考える。

<あいの都一千年構想>

 全国の都市で、いま百年構想を策定するところが増えている。その多くは歴史的文化都市だ。歴史があるからこそ、将来へ都市を受け継ぐ事に拘っている。新潟県の新潟経済同友会では『百年後委員会』を設けて、新潟県の百年後の目標となる姿を策定した。県の人口を300万人に伸ばし、首都機能を誘致するなどの壮大なものだ。高松の丸亀町商店街では、100年後の繁栄を目指した街づくりを実践。全国からの注目を集めている。佐賀県では、『佐賀城下再生百年構想』に取組んでいる。街の再生と住民の文化レベル向上が目的だ。金沢でも、金沢城を再建して、百年後に国宝とする事を目指している。
 富山県でも、百年先を見据えたマスタープラン(都市計画)を考える必要がある。そして、計画を立てるだけではなく、実行する必要が重要となる。百年構想を県民の住民投票で賛否を問い、恒久的な取り組みとして条例化させる。この百年構想の具現化を目指して、継続して取組める組織づくりを行うことも大事だ。ブラジルのクリチバ市では、都市計画を法令化し、たとえ首長が変わっても街づくりの根幹は変わらないという。その実行部隊も、クリチバ都市計画研究所(イプキ)が行っている。富山県はこのクリチバ方式を参考にしたい。
 百年の計画を積み重ね、千年後の将来、世界を代表する歴史文化都市を越中国につくる。『越中あいの都千年構想』。その最初の百年構想を、ファーストステージ100と位置づけたい。